※以下の文章は岩田俊之氏によって書かれました「学生オーケストラへの提言」の一部を抜粋し、我々の立場に当てはめて書き換えた文章です。加筆修正並びに本HPへの掲載を快く承諾してくださいました岩田氏には心より感謝申し上げます。


聞く人のための演奏
最近仕事で、病院や老人ホームなどで実習をする機会が多く、老人の介護を毎日するようになりました。老人ホームなどでは、時々ボランティアの方や、「音楽療法士」の方などが尋ねてこられ、ミニコンサート、音楽に合わせて歌を歌ったり、ゲームをしたり、いろいろと老人の健康のための活動をされています。
本当に心から、聞き手のための選曲、聞き手のための演奏をされていると思います。曲によっては、涙を流して感動される方もおられます。寝たきりの方、天涯孤独の方、頭はすごく冴えていても体が言うことを聞かず自らの死が近いことを悟っている方などにとって、時に音楽は、心の奥底をゆさぶることができるのです。
そのような光景を見ると、本当に演奏する側と聴く側との心が結ばれていると感じる事が出来ます。私がはじめてその場に居合わせた時、自分を振り返って恥ずかしくなりました。自分はこれまで聞く人のための演奏をしたことが無いのではないだろうか。子供の頃から、大人になってからでも、「聞く人のため」と自分に言い聞かせていただけではないだろうか。本心では、単なる「自己表現」「自己実現」だけではなかったか。(もちろん音楽を演奏する上で、「自己実現」は大切な要素の一部なのですが)私は、医療の仕事を通して、本当に心から人のために役立ちたい、聞く人のための音楽を演奏したい、と思うようになりました。
そのためには、聴いてくれる人のために「全てを捧げ尽くす」ことが大切です。聴いてくれる人が良い気分になり、「聴きに来てよかった」と思えるように、それが演奏者としての最終目標であるべきです。決して自分の演奏がうまくいったとか、自分が音楽家として成長したとか、自分の力を出し切っていい演奏ができたとか、そういったことが最終目標であってはいけないと思います。あくまでも聴いてくれる人のために「尽くす」ことです。この点は音楽というものは特殊な分野です。なぜならそれは、演奏者と聴衆の両者がいてはじめて成り立つものだからです。
これは、医師や看護師と患者との関係に似ていると思います。医療とは自分のためではなく他人を喜ばせ幸せにするために行うものです。共に医療者を志す皆さんも「人のために奏でる音楽」を通して、多くのことを学び、誰からも信頼される良い医療者になってくれたらと思います。


演奏会の目的
「いま皆がやろうとしている演奏会の目的は何?」という質問に対してはおそらく、明確な答えをもっている人と、そうでない人に分かれるのではないでしょうか。人が何かをするに当たって、個人であろうと団体であろうと、目的を持たずに行動すること、あるいは間違った目的を持って行動することは、即失敗につながります。
スポーツの場合は非常にわかりやすいはずです。目的は勝つことです。そのために一生懸命練習をする。プロでもアマチュアでも同じことです。ブラスバンドもスポーツの試合と同様、夏に毎年コンクールがあり、そこで勝ち上がる事を目指して練習をするのです。
ではなぜ皆さんは演奏会をするのですか? その目的は何ですか?目的をもたなければ演奏会も失敗に終わります。個人個人は技術の上達など目標をもっているでしょう。しかし、チームとしての目的を明確にし、メンバー全員の意思統一を図らなければ、必ず失敗に終わります。
目的が定まっていない状態で半年間、演奏会に向けて練習をする。そのときに遭遇しうる一番大きな問題点は、自分が目指している音楽的完成度とは程遠い状態で他の人が満足してしまっている状態でしょう。これを逆の立場から考えれば、その人は十分楽しく演奏をしているのに、練習が足りないとか、下手くそとか他人から言われ不愉快になります。こういった事の積み重ねで人間関係に亀裂がはいったりすることがあります。
ここで言うところの私たちの目標は簡単です。聴く人つまりは患者さんを喜ばせ感動させることが目標です。「感動させます」「喜びを与えられる事を、喜びに感じよう」この二つを私たちの目標に掲げ、そのために各個人が何をしたら良いか、何をすべきか、考えて行動してほしいと思います。
上級生のトップより下級生の方がはるかに上手な場合はどうしますか?音楽的な質の向上のため下級生にトップを弾かせますか、それとも友情、あるいは伝統などを優先して上級生にトップを弾かせますか?我々の答えは明白です。


楽譜とは
作曲とは、作曲家の音(心)を、音符という記号で記録するということ。つまりその過程には、重大な情報の欠落があるという事に気づかなければなりません。反対に楽譜を見て演奏するということは、楽譜という記号を心ひびく音(心)に変換する動作です。したがって楽譜に書かれていない事をいかに再現するかという事が大切であり、本来もっと時間と努力を使うべきものです。楽譜に書いてあることはあくまでも指標であり、「楽譜どおり演奏する」ことは演奏家として最低限必要なことです。
映画や芝居の台本を自分で読めば感動するでしょう。これは、自分自身のなかで、文字から想像力を発揮し、自分の心に問いかけているからに他なりません。しかし、台本を他人に読み聞かせる、つまり芝居あるいは映画にするという行為は、そう簡単にできるものではありません。例えばあなたが2時間かかる名作映画の台本を読んだとして、じっと聞き入ってくれる聴衆はいるでしょうか。あなた自身の感動が聴衆に伝わるかどうかは疑問です。言葉という最も身近な道具を使っても、このように言葉そのもので他人の作品を人の心に訴えかけることは難しいのです。
一方、音楽となると、この点において言葉よりさらに難しいことは明白です。ひらがな一文字単独で意味を持たないのと同様、一つの音符単独では、音楽的意味は、まったくありません。単語となって初めて意味を持つように、いくつかの音符が集まって初めて意味を持ちます。楽章全体や部分ごとには大抵の人が意味を持たせようとしているでしょう。しかし、フレーズひとつ、あるいは音符数個のかたまりとしてはどうでしょう。やはりここに意味を持たせることを考えなければ、文章つまり曲とはなりえません。こういった細部を考えるにあたっては、楽譜という記号をそのまま真に受けては、本質を見落としてしまいます。以下にその例の一部出したいと思います。
テンポ
Tempo Iあるいはa tempoは本当に元のテンポに戻すべきなのか?rit.やaccel.などのテンポ変化が示されていない限り、一定のテンポで演奏すべきなのか?
音長
音符の長さは絶対的なものか? 4分音符4つが連なっているとしよう。本当にその4つは同じ長さであるべきか? 3連符と4連符が連続しているとき、本当に4連符を3連符より速い速度で演奏するのか?
強弱
一つの曲、一つの楽章のなかで、ある部分のffとまた別の部分のffは本当に同じ強さであるべきなのか? fとffの間、またはmpとmfの間はないのか? クレッシェンドやfなどの強弱記号が書かれていないところは、一定の音量で演奏すべきなのか?
表情記号
くさび型スタカートと点のスタカートの違いに一定の法則はあるか? テヌートとアクセントは本当にいつも違うのか? 何も示されていない音符は本当にマルカートであってスタカートやテヌート、アクセントをつけるべきでないのか? スラーの切れ目は本当に切るのか? スラーが書かれていないから本当にレガートに演奏しないのか?
これらは、楽譜を人間の心に通じる音楽にするにあたって、注意し、常に考えなければならない重要な点のほんの一例です。しつこいようですが、楽譜に書くことのできる情報は、音長、テンポ、強弱、表情など、どの次元においても、限られた数種類しかない記号なのです。欠落した元々の作曲家の音(心)を復元するのが、演奏家としての使命であり、その過程において楽譜はあくまでも手がかりであって、それがすべてではありません。作曲家が何をどう表現したかったのか、聴衆はどういう音楽を期待しているのか、その橋渡しをするのが演奏家の使命なのです。


演奏について
(演奏会で)演奏するということは、自分の意志を人に伝えるということです。もちろんそのためには、何かを表現したいという欲求、つまり意志がなければなりません。ただ楽譜に書かれていることを正確に演奏するだけでは、それは音楽とは呼べません。全てのフレーズ、全ての音符に自分なりの意味を込めて演奏しなければなりません。世界中でその価値を認められているクラシック音楽には、無意味な音符など一つもありません。
音に意味を込め、音楽として完成させるには、まずその作品の全体像をつくりあげなければなりません。自分なりにその作品に沿って物語を作ってみましょう。そして楽章ごと、テーマごと、フレーズごと、そして一つ一つの音符や休符というふうに、全体から細部へと順に考えながら意味を持たせて下さい。意味をもたせるとは、なにも明確な言葉として表現できなくてもかまいません。自分の心の中に描ければいいのです。もちろん、メンバーの一員として演奏するからには、奏者同士で解釈の違いもでてくることでしょう。そこを調整していくことがアンサンブルの魅力でもあります。
ポップスなどの言葉のある音楽はまだ理解し易く、それなりの形にもし易いでしょう。それでも、歌い手の心と技術が合わさって初めて感動する音楽となるのであって、それほど簡単なものでもありません。同じ歌でも、ただ素人がカラオケで歌っても、なんの感動も伝わらないことは、誰でも知っているはずです。それは、歌詞が訴えようとしている心の底の部分にまで歌い手の心、技術が到達していないからに他なりません。
歌詞のない管弦楽などは、これに輪をかけてさらに難しいはずです。大切なのは、作曲者が曲を書いたときの心境をどれだけ深く、頭で理解し、心で感じ取れるか。どこまで自分に照らし合わせて自分の音楽、自分なりの言葉として消化できるか。つまり自分の心の奥底をえぐり出すことができるかです。そして、楽譜にかかれている全ての音符一つずつ、そして音符と音符の隙間にまで、入りきらないほどの思いを詰め込んでほしいと思います。そのくらいしなければ、人に聞いてもらう意味がありません。自分でCDを聞いて感動したそのままの気持ちで演奏しても、絶対に聞いている人には何も伝わりません。
音楽の格言に「音符を根っこから掘り起こせ」という言葉があります。音符の頭をなでているだけでは、いくら上手な演奏技術をもっていても、心に響く音楽にはなり得ません。この中にも、ステージに自分一人だけが立った状況で、ソロを経験した人は、たくさんいると思います。その時の事を思い出してみてください。音符一つ一つにまで色々な思いを詰め込んで演奏したはずです。音程、テンポ、音量、音質、音の硬さ柔らかさ、音の衰弱の仕方、音の盛り上がり方、ビブラートの有無や、かけた時の揺れ幅や、速さ、かけるタイミング、息の吸い方、吐き方、体重、重心移動、などなど、その他にも音には直接は関係ない色々な思いを詰め込んだはずです。一緒に弾く人が多くなればなるほど、他人任せになり、一つの音に対する重みが薄れてしまう傾向があります。それでは、心に響く音楽になりえません。一人一人が、一つ一つの音符にたくさんの思いを込めて演奏する。その音達が集まったのなら、そこから生まれてくる音楽が良くないものであるはずがありません。


演奏会、アンサンブルでのマナー
演奏会などで、外の病院に伺う時などは、挨拶などをしっかりし、医大生として恥ずかしくない態度で向こうの方と接してください。
各個人、各グループは自分達のキャパシティーにあった数、難易度の曲をこなしてください。もし人前で演奏するに至らないと思われる曲がある場合は、いさぎよくその曲を中止してください。その時の判断は、各個人、各グループのリーダーに任せます。
練習開始時刻の5分前には席について、楽譜、楽器の準備が整っていて皆が音楽を始められる状態になっていること。 その時、下の学年は積極的に譜面やイスの準備を行って、出来る後輩を目指してください。
練習を欠席、遅刻、早退することは基本的に認められません。オーケストラメンバー全員が「一人でも欠けたら響きやバランスが変わってしまい練習している意味が無い。」という認識が必要です。アンサンブルの練習は、時間と空間を共有する場所です。
初見で来るのは問題外です。よく「今日は所見だ」とか言う人がいますが、そんなことが平気でいえる自分を恥ずかしく思って下さい。合奏の場は個人練習をする場ではなく、曲のニュアンスやテンポなどを合わせる場だからです。小人数で行う室内楽で弾けていない人がいると、そのパートの音がなくなり練習自体が成り立たなくなります。メンバー全員に迷惑をかけることになりますし、ひいては演奏を聴いてくれる人にも影響を与える結果となってしまいます。


最後に
演奏を聴いてくれる患者さんにとって私たちがプロであるか、または、アマチュアや学生、初心者であるかは関係ありません。誰もが、私たちが開く演奏会を楽しみにして、期待して聴きに来られるはずです。
そこで、私達と聴く人をつなぐのは、唯一その場で作り出される音楽のみであって、私たちが医大生であり、どれだけ勉強や実習、バイトなどが大変で、忙しいかは、分からないことであり、知る必要のないことです。
音楽でしか語るすべをもたない私たちにとって、その場で作り出す音楽がすべてなのです。
言い訳は許されません。
学業もある中、大変だとは思いますが、それなりの実力と情熱のあるメンバーで作り上げていく世界の素晴らしさは、言葉には言い表せないものがあります。
皆で、感動させましょう。そして、喜びを与えられる事を、喜びに感じましょう 
Flora室内楽団〜flowers to your heart〜






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